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最高裁判所第三小法廷 昭和51年(オ)923号 判決 1980年3月28日

上告人

白川義員

右訴訟代理人

竹澤哲夫

千葉憲雄

望月千世子

被上告人

天野正之

右訴訟代理人

依田敬一郎

主文

原判決を破棄する。

本件を東京高等裁判所に差し戻す。

理由

上告代理人竹澤哲夫、同千葉憲雄、同望月千世子の上告理由第三点について

一原審は、

(一)  上告人は、自ら撮影して創作しその著作権を取得したカラー写真を原判決添附写真(1)のような縦約三〇センチメートル、横約三七センチメートルのカラー写真としたうえ、昭和四二年一月一目付株式会社実業之日本社発行の写真集「SKI'67第四集」に複製掲載して発表したほか、その後右複製写真における左部分約五分の一を切除し残部をやや拡大して縦横約三七センチメートルの写真にしたうえ、上告人の氏名を表示しないでアメリカン・インターナショナル・アンダーライターズ社発行の昭和四三年度用広告カレンダーに複製掲載したところ、被上告人は、右カレンダーに掲載された写真を利用し、その左側部分の一部約三分の一(後記「SOS」掲載分)又は六分の一(後記「週刊現代」掲載分)を切除してこれを白黒の写真に複製したうえ、その右上にブリジストンタイヤ株式会社の広告写真から複製した自動車スノータイヤの写真を配して合成して原判決添附写真(2)のような白黒写真(以下「本件モンタージュ写真」という。)を作成し、これを昭和四五年一月ころ発行した自作の写真集「SOS」に掲載して発表したほか、株式会社講談社において発行した「週刊現代」同年六月四日号に掲載して発表した、

(二)  (ア) 本件モンタージュ写真は、上告人が創作して複製した前記各写真(以下「本件写真」という。)とは別個の、そのパロディというべき被上告人の創作にかかる被上告人自身の著作物であるから、旧著作権法(明治三二年法律第三九号、以下単に「法」という。)三〇条一項第二にいう「自己ノ著作物」に該当し、(イ) 本件写真は、本件モンタージュ写真の素材として利用されたものであるが、このような利用は右規定にいう「節録引用」に該当し、(ウ) 本件モンタージュ写真の作成はその目的が本件写真を批判し世相を風刺することにあつたためその作成には本件写真の一部を引用することが必要であり、かつ、前記のような引用の仕方が美術上の表現形式として今日社会的に受けいれられているフォト・モンタージュの技法に従つたものとして客観的に正当視されるものであつたから、他人の著作物の自由利用として許されるべきものと考えられ、右引用にあたり本件写真の一部が改変されたことも、本件モンタージュ写真作成の右目的からみて必要かつ妥当なものであつたということができ、原著作者たる上告人の受忍すべき限度を超えるものとは考えられないから、その同一性保持権を侵害するものとはいえず、したがつて、被上告人の前記本件写真の利用は右規定にいう「正当ノ範囲」を逸脱するものではない、

(三)  なお、被上告人が素材として利用した前記カレンダーに掲載された写真には上告人の氏名の表示がなかつたのであるから、被上告人は、これをその出所を明示することなく利用することを許諾されていたものというべきである、

との趣旨の認定判断をし、上告人の被上告人に対する著作者人格権侵害を理由とする慰藉料支払の請求を棄却すべきものであるとしたことが原判文に照らし明らかである。

二そこで、所論にかんがみ、原審の判断の当否について検討する。

法三〇条一項第二は、すでに発行された他人の著作物を正当の範囲内において自由に自己の著作物中に節録引用することを容認しているが、ここにいう引用とは、紹介、参照、論評その他の目的で自己の著作物中に他人の著作物の原則として一部を採録することをいうと解するのが相当であるから、右引用にあたるというためには、引用を含む著作物の表現形式上、引用して利用する側の著作物と、引用されて利用される側の著作物とを明瞭に区別して認識することができ、かつ、右両著作物の間に前者が主、後者が従の関係があると認められる場合でなければならないというべきであり、更に、法一八条三項の規定によれば、引用される側の著作物の著作者人格権を侵害するような態様でする引用は許されないことが明らかである。

そこで、原審の確定した前記事実に基づいて本件写真と本件モンタージュ写真とを対照して見ると、本件写真は、遠方に雪をかぶつた山々が左右に連なり、その手前に雪におおわれた広い下り斜面が開けている山岳の風景及び右側の雪の斜面をあたかもスノータイヤの痕跡のようなシュプールを描いて滑降して来た六名のスキーヤーを俯瞰するような位置で撮影した画像で構成された点に特徴があると認められるカラーの写真であるのに対し、本件モンタージュ写真は、その左側のスキーヤーのいない風景部分の一部を省いたものの右上側で右シュプールの起点にあたる雪の斜面上縁に巨大なスノータイヤの写真を右斜面の背後に連なる山々の一部を隠しタイヤの上部が画面の外にはみ出すように重ね、これを白黒の写真に複写して作成した合成写真であるから、本件モンタージュ写真は、カラーの本件写真の一部を切除し、これに本件写真にないスノータイヤの写真を合成し、これを白黒の写真とした点において、本件写真に改変を加えて利用し作成されたものであるということができる。

ところで、本件写真は、右のように本件モンタージュ写真に取り込み利用されているのであるが、利用されている本件写真の部分(以下「本件写真部分」という。)は、右改変の結果としてその外面的な表現形式の点において本件写真自体と同一ではなくなつたものの、本件写真の本質的な特徴を形成する雪の斜面を前記のようなシュプールを描いて滑降して来た六名のスキーヤーの部分及び山岳風景部分中、前者についてはその全部及び後者についてはなおその特徴をとどめるに足りる部分からなるものであるから、本件写真における表現形式上の本質的な特徴は、本件写真部分自体によつてもこれを感得することができるものである。そして、本件モンタージュ写真は、これを一瞥しただけで本件写真部分にスノータイヤの写真を付加することにより作成されたものであることを看取しうるものであるから、前記のようにシュプールを右タイヤの痕跡に見立て、シュプールの起点にあたる部分に巨大なスノータイヤ一個を配することによつて本件写真部分とタイヤとが相合して非現実的な世界を表現し、現実的な世界を表現する本件写真とは別個の思想、感情を表現するに至つているものであると見るとしても、なお本件モンタージュ写真から本件写真における本質的な特徴自体を直接感得することは十分できるものである。そうすると、本件写真の本質的な特徴は、本件写真部分が本件モンタージュ写真のなかに一体的に取り込み利用されている状態においてもそれ自体を直接感得しうるものであることが明らかであるから、被上告人のした前記のような本件写真の利用は、上告人羽本件写真の著作者として保有する本件写真についての同一性保持権を侵害する改変であるといわなければならない。

のみならず、すでに述べたところからすれば、本件モンタージュ写真に取り込み利用されている本件写真部分は、本件モンタージュ写真の表現形式上前説示のように従たるものとして引用されているということはできないから、本件写真が本件モンタージュ写真中に法三〇条一項第二にいう意味で引用されているということもできないものである。そして、このことは、原審の確定した前示の事実、すなわち、本件モンタージュ写真作成の目的が本件写真を批判し世相を風刺することにあつたためその作成には本件写真の一部を引用することが必要であり、かつ、本件モンタージュ写真は、美術上の表現形式として今日社会的に受けいれられているフォト・モンタージュの技法に従つたものである、との事実によつても動かされるものではない。

そうすると、被上告人による本件モンタージュ写真の発行は、上告人の同意がない限り、上告人が本件写真の著作者として保有する著作者人格権を侵害するものであるといわなければならない。

なお、自己の著作物を創作するにあたり、他人の著作物を素材として利用することは勿論許されないことではないが、右他人の許諾なくして利用をすることが許されるのは、他人の著作物における表現形式上の本質的な特徴をそれ自体として直接感得させないような態様においてこれを利用する場合に限られるのであり、したがつて、上告人の同意がない限り、本件モンタージュ写真の作成にあたりなされた本件写真の前記改変利用をもつて正当とすることはできないし、また、例えば、本件写真部分とスノータイヤの写真とを合成した奇抜な表現形式の点に着目して本件モンタージュ写真に創作性を肯定し、本件モンタージュ写真を一個の著作物であるとみることができるとしても、本件モンタージュ写真のなかに本件写真の表現形式における本質的な特徴を直接感得することができること前記のとおりである以上、本件モンタージュ写真は本件写真をその表現形式に改変を加えて利用するものであつて、本件写真の同一性を害するものであるとするに妨げないもでのある。

三以上によれば、被上告人による本件モンタージュ写真の作成発行は、これについて上告人の同意があれば格別、これがない限り、上告人が本件写真の著作者として保有する著作者人格権を侵害しないものということはできないから、これと見解を異にし、本件モンタージュ写真は、法三〇条一項第二に基づき本件写真を引用したにすぎないものであつて、右引用の目的、仕方においても不当の点が認められないから、右引用にあたり本件写真に変更が加えられたとしても、これにより上告人が本件写真につき保有する同一性保持権を侵害したことにはあたらないと判断し、被上告人による本件モンタージュ写真の発行は、上告人の著作者人格権の侵害にあたらないとしてその請求を棄却すべきものとした原判決は、結局、法三〇条一項第二の解釈を誤り、ひいては法一八条一項の解釈を誤つた違法があり、右違法が判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、論旨は理由があり、原判決は破棄を免れない。そして、本件については更に審理を尽くさせる必要があるから、これを原審に差し戻すのが相当である。

よつて、その余の論旨についての判断を省略し、民訴法四〇七条に従い、裁判官環昌一の補足意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

裁判官環昌一の補足意見は、次のとおりである。

私は、以上に説示された当裁判所の見解が、一般にパロディといわれている表現(その概念内容は必ずしも明確であるとはいいがたいと思われるが)のもつ意義や価値を故なく軽視したり否定することとなるものではないと考えるものである。しかしながら、一方において著作権を著作者の私権として保護すべきものとする要請と、他方において著作物が公共の財産としての一面をも有することに基づく社会的要請との調和をねらいとするものと考えられる著作権に関する実定法令(前記法三〇条一項第二の規定もその一例とみるべきものである。)に即してみると、本件の場合のように、他人の著作物である写真(以下「原写真」という。)を目的としていわゆるフォト・モンタージュの技法によりパロディ写真を作成するため、原写真の一部をそのまま写真により複製して利用する場合には、写真というものの技術的性質から原写真のその部分をこれと寸分違わないかたちで取り込まざるをえないものであること、いわゆるパロディの趣旨で原写真を取り込み利用するということは、必然的に原写真の外面的表現形式及び内面的表現形式にわたり多かれ少なかれ改変を加えるものであるとともに、写真が吾人の視覚に直接訴える表現媒体であるだけに、原写真を大きく取り込み利用するようなときには、原写真の完全性を損うものであるとの評価を免れることができず、しかも、右改変について原写真の著作者の同意を得ることは事の性質上不可能といつてもよいと考えられること、他方、原写真の同一性がもはや完全に失われたと認められるほど細分された原写真の部分を利用してモンタージュしたのでは、恐らくそのパロディとしての意義は著しく低くならざるをえないと思われること等の諸点を勘案すると、写真である原著作物を目的としてするフォト・モンタージュの技法によるパロディといわれる表現には、前記のような写真の技術的性質及び写真が吾人の視覚に直接訴える表現媒体であることに起因して、原写真の著作者の著作者人格権、特にいわゆる同一性保持権との関連における宿命的な限界があると考えるほかない。このような見地からすれば、本件モンタージュ写真は、右の限界を超えるものといわざるをえないものであり、その本件写真のパロディとしての意義・価値を評価することはよいとしても、そのため、明文上の根拠なくして本件写真の著作者である上告人の著作者人格権を否定する結果となる解釈を採ることは、前述した実定法令の所期する調和を破るものであり、被上告人の一方に偏したものとして肯認しがたいところというべきである。また、このように解しても、本件において被上告人の意図するようなパロディとしての表現の途が全く閉ざされるものとは考えられない(例えば、パロディとしての表現上必要と考える範囲で本件写真の表現形式を模した写真を被上告人自ら撮影し、これにモンタージュの技法を施してするなどの方法が考えられよう。)から、上告人の一方に偏することとなるものでもないと思う。

(環昌一 江里口清雄 横井大三 高辻正己)

上告代理人竹澤哲夫、同千葉憲雄、同望月千世子の上告理由

<目次>

はじめに

第一点 憲法第二九条、第一三条および第三一条違反並びに旧著作権法第三〇条一項の解釈・適用の誤り

(一) 旧著作権法第三〇条一項の違憲の疑い

(二) 適用違憲と旧著作権第三〇条一項の解釈・適用の誤り<省略>

第二点 憲法第二一条一項の解釈・適用の誤り<省略>

第三点 旧著作権法第三〇条一項第二号の解釈・適用の誤り

(一) 「自己ノ著作物」についての解釈・適用の誤り

(二) 「節録引用」についての解釈適用の誤り

(三) 「正当ノ範囲」についての解釈適用の誤り

第四点 旧著作権法第三〇条二項の解釈・適用の誤り及び判例違反<省略>

第三点 旧著作権法第三〇条一項第二号の解釈適用の誤り

原判決は旧法三〇条一項第二号の「自己ノ著作物」「節録引用」「正当ノ範囲」について、法令の解釈・適用を誤るものであるから破棄を免れない。

旧法三〇条一項第二号は次のとおり規定する。

「既ニ発行シタル著作物ヲ左ノ方法ニ依リ複製スルハ偽作ト看做サス

第二 自己ノ著作物中ニ正当ノ範囲内ニ於テ節録引用スルコト」

以下、本件について各検討し、上告の理由をのべる。

(一) 「自己ノ著作物」についての解釈適用の誤り

一、原判決の判断と問題の所在

本件につき原判決の「自己ノ著作物」に関する判断は次のとおりである。

「……その表現型式は本件写真の主要部分たる雪山の景観がなのまま利用されているけれども、作品上、これに巨大なタイヤの映像を組合わせることによつて、一挙に虚構の世界が出現し、そのため、本件写真に表現された思想、感情自体が風刺、揶楡の対象に転換されてしまつていることが看取される……この点にフォト・モンタージュとしての創作力を見出すことができるから、本件モンタージュ写真は本件写真のパロディというべきものであつて、この素材に引用された本件写真から独立した控訴人自身の著作物であると認めるのが相当である」

そこで右原判示につき、問題となるのは次の二点である。

1 旧法三〇条一項二号の「引用」は、(現行法も勿論であるが、)その前提に「自己ノ著作物」が存在しなければならない。ところで、本件においては、被上告人の「自己ノ著作物」が存在するといえるか。

2 原判決の判示するような、原著作物の「主要部分」を「そのまま利用」することが原則として著作権の侵害になることはいうまでもない。それにもかかわらず、それが同号によつて偽作の違法性を阻却して同号の「自己ノ著作物」となるか否かは、原判決によれば、他の映像との組合せによつて「一挙に虚構の世界が出現し」、それによつて原著作物の「思想、感情自体が――中略――転換されてしまつた」ことにかかるというのであり、つまり「フォト・モンタージュとしての創作力を見出すことができる」か否か、に左右されることになるのである。

このような原判決の「自己ノ著作物」に関する解釈は正当として是認できるであろうか。

二、「自己ノ著作物」は存在しない。

そこで、まず右の一の1の点について考える。一、二審判決が確定し、当事者間に争いない事実によれば本件モンタージュ写真は、一本のタイヤを除いて全ての写真が上告人の著作物そのものである。挿入されたタイヤ一本も被上告人の「著作物」ではない。

本件モンタージュ写真はこのように被上告人が「他人の著作物」である上告人の本件写真の中に他の映像、すなわち、タイヤ一本を組合せ合成したものである

同号の「引用」は、前記のとおり、その前提に「自己ノ著作物」が存在しなければならない。換言すれば、同号適用の場合とは、まず「自己ノ著作物」があつて、この「自己ノ著作物中ニ」「他人の著作物」を引用する場合をいうのである。

そうすれば、本件の場合は「他人の著作物」中にタイヤの映像を挿入したものであつて「自己ノ著作物」中にタイヤの映像を引用したものではなく、したがつて同号にいう「自己ノ著作物」はもともと存在しないのであり、本件は同号を適用する余地のない場合であるといわなければならない。

原判決は、本件モンタージュ写真を「その素材に引用された本件写真から独立した控訴人自身の著作物であると認めるのが相当である。」と判断し被上告人の「自己ノ著作物」となることを認めた。しかし、ここに原判決のいうところの「自己ノ著作物」たる本件モンタージュ写真はあくまで本件写真を「素材に」して成立したものに他ならず、いい換えれば、本件写真を「素材に」した結果はじめて成立したものに他ならない。

したがつて原判決の如く本件モンタージュ写真について「自己ノ著作物」なる概念を使用するとしても、そのいうところの「自己ノ著作物」はそもそも旧法三〇条一項第二号にいう「自己ノ著作物」に該当しないものである。これを同号にいう「自己ノ著作物」であると判断した原判決は、法令の解釈適用を誤つたものといわねばならない。

このように「他人の著作物」に他の映像を配し、これを「組合せる」(原判決も「組合せ」て本件モンタージュ写真を合成したと判示している)ことについての被上告人の思想、感情は、いわばアイデアにすぎない。つまり「自己ノ著作物」中に「他人の著作物」を「引用」するのでなく、もともとは「自己ノ著作物」は全くなく、「他人の著作物」と「他人の著作物」をきりはりで組合せる場合、これを組合せる人すなわち「自己」についてあるのは「著作物」ではなく、組合せるについての思想、感情そのものだけであるといわなければならない。

その場合、かかる思想、感情そのもの、アイデアそのものは、外部的表現としての著作「物」性を有するものではないことはもちろんで、これが著作権法による保護の対象たりえないことは異論の余地のないことである。

而してかかる「アイデア」の存在が肯定され、そのアイデアそのものに創作性が認められるとしても、それが即「著作物」であるとはいえない以上、本件はそもそも被上告人において「引用」する前提としての自己の「著作物」が存在しないことに帰する。

本件の場合、すなわち「他人の著作物」中に他の映像を配して、それによつて著作するとすれば、それは正に他人の作成にかかる原著作物の「改作」であり、その改作について原著作者に無断であれば、すなわち、偽作となること当然ではなかろうか。

原判決は、本件モンタージュ写真を「本件写真から独立した控訴人自身の著作物であると認めるのが相当」とするとの判断から、同号にいう「自己ノ著作物」への結論を導いている。

しかし、改作によつて出来上つた改作者の著作物を原著作物から「独立した著作物」(原判示)となしうるかどうかということと同号にいう「自己ノ著作物」であるかどうかということとは別個の問題であるにもかかわらず、この両者を混同、同視したところに原判決の誤りが存在する。そのため、原判決は本件モンタージュ写真が「その素材に引用された本件写真から独立した控訴人(被上告人)自身の著作物であると認めるのが相当である」という判断をただちに、同号にいう「自己ノ著作物」に短絡することで終り、そのため同号にいう「自己ノ著作物」については判断を欠落するという結果に陥つているのである。

三、原判決の無用・有害な芸術論

次に前記一の2について考える。

同号「自己ノ著作物」該当性をモンタージュ写真の芸術形式としての社会的評価やパロディ芸術論にかからしめることは、法の解釈・適用に次元の異なる要素を導入して、適正性を失わせ、ひいては恣意的な解釈・適用をもたらすもので許されないこと、多言を要しない。

原判決は前述のとおり、被上告人が上告人の本件写真を利用して、本件モンタージュ写真を合成したことについての偽作性の判断に、そのモンタージュ写真の創作性、芸術性の判断をかからしめることにおいて明らかに混同をおかすものであるといわなければならない。そして、法律上の規範概念としての「自己ノ著作物」とパロディ芸術論とを混同しているところにその誤りがあるものといわなければならない。そのあらわれは小倉百人一首に関するパロディ諭を本件判断中に展開していることにもうかがわれるのである。

なお、原判決は「自己ノ著作物」に関する判断に関してひよう窃にふれている。原判決は「ひよう窃とは、一般に、他人の詩歌、文章その他の著作物に表現された思想、感情をそのまま自己の作品に移行させる意図のもとに、その表現形式を自己の著作物に取りこむ場合に起る問題であ」るとし、「たとえ原著作物の表現形式を取りこんでいても、それが原著作物の思想、感情を批判、風刺、揶ゆする等まつたく異なる意図のもとに行なわれ、しかも作品上客観的にその意図が認められる場合には、原著作物のひよう窃ではない」とする。

いうまでもなくひよう窃なる概念は旧法における法律上の概念ではない。したがつて、その概念内容について詮索する意味に乏しいが、一般的には、ひよう窃とは一審判決の説示するように偽作の一態様にほかならず、これにあたるか否かについて、「意図」をかかわらしめるべき概念ではなく、その意味では原判決の判断は独自の見解にすぎないものといわなければならない。

(二) 「節録引用」についての解釈適用の誤り

一、同法三〇条一項二号の「節録引用」は、まず、自分の著作物が存在することを前提としている。このことは当然であつて多言を要しない。そして既に指摘したように、本件においては「引用」というための前提たる「自己ノ著作物」が存在しないのであるから、そもそも本件においては「引用」の適用自体あり得ないことになる。従つて、原判決が、本件モンタージュ写真につき「節録引用」に当ると解釈して右法を適用したのは、明らかな誤りといわねばならない。このことは既に指摘したので、これ以上繰り返えさないこととするが、前提における誤りは明白である。しかし、原判決は、右のほか「節録引用」そのものの解釈適用についても重大な誤りをおかしているので、以下明らかにする。

二、「節録引用」の意義、内容

正当の範囲内における「節録引用」は出所を明示することを条件として許されているが、「正当の範囲内」及び「出所の明示」については項を改めて詳述することとし、ここでは「節録引用」そのものに絞つて論ずることとする。

意義、程度、内容についての学説、判例はほとんど見解を同じくする。例えば「節録とは、要約して記載することであるが、法は、節録のみに言及して、敷衍に及ばないから、これは許容されない趣旨」(前掲山本桂一 著作権法一一四頁)「節録引用とは、著作物の一部を原作のまま自己の著作物の一部として利用するを言う。したがつて、いかなる場合においても、他人の著作物の全部を引用し、または引用部分を改変することはできない。」(著作権法と著作権条約 城戸芳彦著 東京全音学譜出版社刊一四三頁)「……あくまで自己の著作物中において従たる構成資料として社会的通念において認められうる範囲でなければならない。また『自己の著作物中に』というのであるから、引用する著作者の著作物が独立して存在する場合でなければならない。(中略……)他人の美術的著作物の一部を自己の工芸美術著作物に採用する場合も本号に該当する。しかし後者の場合その引用によつて主客が顛倒し他人の美術的著作物が当該著作物において主たる地位を占めるものとして認められるに至る場合は正当の範囲内における節録引用とはいえないことになる。」(条解著作権 萼優美著 (株)港出版社刊二五五頁)判例では「著作物に創作的に表現された思想または感情を、原作のまま自己の著作目的に適合するように摘録して、自己の著作物中に利用することをいうのであり、原作の思想、感情を改変して自己の著作物の中に入れ、これを自己の著作物とすることは、原作の表現の大部分をそのまま利用するものであつても、すでに改作であつて引用ではないとするのが相当である。」(昭和四七年一一月二〇日東地民二九判・昭四六(ロ)八六四三号、無体財産例集四巻二号六一九頁、時報六八九号五七頁、タイムズ二八九号二七七頁)などがある(以上と同旨前掲半田正夫 著作権法概説一三八頁、前掲文化庁ハンドブック四六頁、一〇五頁、前掲実用法律事典著作権一七四頁以下、著作権法逐条講義 加戸守行著 社団法人著作権資料協会一五四頁以下、実学著作権(上)鈴木敏夫 サイマル出版会一九四頁以下、著作権・出版権問答 市川角佐衛門 美作太郎著 出版ニュース社刊四一頁、著作権へのしるべ―著作権と図書館―米川猛郎著 社団法人目本図書館協会七四頁、文芸・学術の著作権の利用とその限界、阿部浩二 ジュリスト二八二号八頁他。)

「節録引用」の一致した見解を要約すると少なくとも次の七点は必要となろう。

(1) 自己の著作物中に引用するので、まず自己の著作物の存在が必要とされる。

(2) 必ず出所の明示をしなければならない。

(3) 引用は主従の関係が必要である。

(4) 引用は原作そのままでなければならない。

(5) 節録引用部分を改変してはならない。

(6) 一部分引用のときはその旨を明示しなければならない。

(7) 引用の必要性が認められなければならない。

三、原判決の判断とその誤り

1 原判決は、「節録引用」についての判断につき、「節録」の語を大言海などを引いた上

「……右規定における「節録引用」も、他人の著作物の一部を省いて残部を原作のまま自己の著作目的に適合する形式において引用することを広く指称するものと解するのが相当であつて、その引用の結果、原審作物の思想、感情が改変されるような場合を排除する趣旨まで含むものと解することはできない。さような場合、原著作物の引用が偽作とみなされないか否かは、ひとえに、その引用がなおかつ右規定のいう「正当ノ範囲内ニ於テ」なされたということができるか否かによつて決せられる問題たるにすぎない。」

として本件は「節録引用」に該当するとしている。

右判断の中で「偽作」とみなされるか否かについても重大な誤りが存するが、これは後にふれることとし、「節録引用」の解釈適用についての誤りを明らかにする。

2 ここに「引用」とは「自己ノ著作物」への他人の著作物の「引用」であるところ、本件の場合、そもそも「自己ノ著作物」が存せず、したがつて「引用」の前提を欠くことは既に指摘済であり、出所の明示についても項を改めるので省略する。

本件は、上告人の本件写真著作物を一部分カットしたのみで、右著作物の

(1) 思想、感情を改変する形で(原判決も認めている)、

(2) 主従の関係を無視し、つまり上告人の著作物をほとんど全部を借用した形で、

(3) 本件写真の一部を、カットしたことについては何の明示もなく、

(4) カラーを白黒にして、

(5) 本件写真著作物を使用せねばならぬ必然性は存しないに拘わらず、

被上告人において、これを利用し、しかも自己の著作物として発表したものである。右(1)乃至(5)のいずれかに該当するならば、旧法三〇条一項二号にいう「節録引用」の適用は許されない。しかるに、原判決は、右(1)乃至(5)の事実を無視し、「節録引用」の解釈を曲げ、これを適用したものであつて、かかる解釈適用は何人をも納得させえない誤りである。

原判決は、先に指摘したように芸術論と法解釈を混同したものであつて、暴論というべく、法規無視、引用の濫用へと拍車をかけるに等しいものといえよう。立法に関与した小林尋次氏は前掲「現行著作権法の立法理由と解釈」の中でこの点を次の如くいましめている。

「しかしこの自由と言う複製権の制限は、兎角濫用され易く、従つて著作者に不当なる損害を与える場合の少くないことを十分に配慮するに必要なることを強調したい。従つてこの種規定の立案に当つては、字句の煩瑣を忌わずできるだけ利用条件を綿密に規定し、「濫用」されることの無いよう努力することが立法者の責務である。……(中略)私は第三十条の各条項を運用するに当つては、その立法精神に鑑みて、次の如き根本精神を持つべきであろうと考えるし、又その趣旨を十分に一般公共に周知せしむることが肝要と思う。

第三十条の規定は上に述べたような精神からできている規定であるから、公益の名にかくれて自由の濫用と言うことが有つてはならぬ。濫用と然らざるものとの限界に、要するに利用者の信義誠実の存否に在るのであるが、具体的判定の基準としては、(1)利用者の目的、動機がどうであつたか、(2)利用の必要性がどの程度か、(3)利用される著作物の範囲の広狭、(4)利用の形体はどうなつているか等が判定の基礎となるものと考える。利用した著作物と利用された著作物とが、主客顛倒するようなことがあつてはならないことは勿論である。」(前掲二〇六頁)

なお、さらに本件一審判決に対してなさた解説において示された次の意見は原判決を指摘するのに適切である。すなわち、

「節録引用とは、著作物の一部を原作のまま自己の著作物として利用することである(城戸・著作権法研究二三六)。現行著作権法は、三二条で「……引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究、その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない」としているが、その趣旨は、旧法のものと変わらない。フランス法の一九五七年の著作権法四一条三号にも同様の規定がある。そして、引用するものから引用されたものを取り去つてしまつたら、後には全然意味をなさないものだけが残つてしまうようなのは引用ではなく、かつまた引用は、原作を忠実に引用するものでなければならないとされている。すなわち、本件のようなモンタージュ写真で、どこからどこまでが引用部分であるというような表示をすることが可能であろうか。一枚の写真は、一枚でまとまつたものとして、一つのまとまつた思想・感情をもつのであつて、これを分割してここまでが引用、ここまでが批判部分というように分けることはできないのではないか。その意味で、文章を引用する場合と異なるのではないかと考えられる」(判例時報六八九号五八頁)。

さらにまた、次のケースも本件「節録引用」の判断に参考にされてよい。すなわち、向井潤吉画伯が昭和四六年三月頃、大日本印刷に対して一九七二年カレンダー用として使用を許諾した六点の作品が、画面を一部削られ、作者名も隠匿された上、色紙に化けて市販されたケースで、同画伯が刑事告訴した事件である。この事件は刑事告訴事件としては「結果的には、向井氏の温情によつて竜頭蛇尾の形でおわ」つたようであるが(伊藤信男「著作権法一〇〇話」五七二頁)、上告人の指摘したいのは同書中に引用されている向井画伯の朝日新聞(昭四七・八・一六)紙上の談話である。それによると向井氏は「絵というものは、少しでもトリミングされたりすると、イメージをたちまち損う。向井個人にとどまる問題ではないと判断し、美術の普及を大義名分に勝手放題をする一部の悪徳業者と対決する」と語つたという点である。この向井画伯の言は、絵のみならず写真をふくむ美術作品すべてに妥当することである。したがつて「節録引用」を文章の場合でなく、写真をふくむ美術作品について論ずる場合には右の点に関する慎重な考慮は不可欠であるといわなければならない。

原判決は、法解釈を明らかに典げた上、前述の如く濫用を助長する如き誤つた適用を行つたものである。本上告審において必らず是正されなければならない。

本件は、具体的事案としても、被上告人はフォトモンタージュを業とし、本件モンタージュ写真も自己の著作物として表示した上「週刊現代」に公表するなど自己の商品として営利のためにこれを用いている事実などに鑑みても、かかる利用を同号によつて無制限に是認することは同号の趣旨に反するものといわなければならない。

四、「偽作」の判断について

原判決は「偽作」の判断として「原著作物の引用が偽作とみなされないか否かは、ひとえに、その引用がなおかつ右規定のいう「正当ノ範囲内ニ於テ」なされたということができるか否かによつて決せられる問題たるにすぎない。」と判示している。

ところで「法は、著作権(狭義)の侵害を偽作といつて(二九条)。」(前掲山本桂一 著作権法一三七頁)いるものであるところその態様も「……著作権者以外の者が無断で最狭義の複製をする場合すなわち無断で他人の著作物とほとんど同様のものを作る場合、いわゆる盗作・ひよう窃・偽版・模写・贋作・模造などを行う場合は勿論、無断の編集・翻訳・脚色・写調についても成立するほか、いわゆる無形複製である興行・演奏・放送についても、それが原作者に無断で行なわれれば、やはり法のいわゆる偽作となる。」(前掲山本 一三九頁、同旨前掲城戸芳彦、著作権法と著作権条約一九〇頁、他)また、自由利用の場合に「出所を明示」しない場合にも偽作となる(前掲萼優美 条解著作権二六二頁他)のである。

原判決の前摘示の判示は、原著作物を引用する場合の偽作の成否を『ひとえに、その引用が「正当ノ範囲内二於テ」なされたということができるか否かによつて決せられる問題』としている。

しかし、右のように偽作の成否を「正当ノ範囲内」と「ひとえに」かからしめるのは明らかに誤りである。前記のとおり、著作権者以外の者が無断で他人の著作物を複製すれば、原則として著作権を侵害する、すなわち偽作となる。その偽作の違法性を阻却する場合の一つとして旧法三〇条一項第二号があるが、これに該当するか否かが「ひとえに」「正当ノ範囲」にのみかかるものではない。本件に即していうならば既述のとおりの観点に立つの同号適用の可否のほか「自己ノ著作物」、「節録引用」の該当性が「正当ノ範囲」に先立つて論じられなければならないこと、すでにふれたところで明らかである。

してみれば、右の原著作物を引用する場合の偽作の成否に関する原判決の判断は同号についての法令の解釈・適用を誤るものといわなければならない。

(三) 「正当ノ範囲」についての解釈・適用の誤り

一、原判決の解釈

原判決が、「節録引用」という法文上の文言に常識の枠をはるかに越えた広い解釈を与え、法律的効果の殆んど認められない無意味な文言として位置づけ、よつて偽作か否かの判断の全てを「正当ノ範囲」の解釈にゆだねたことの誤りは、前述したところである。本項では、仮りに原判決の認定するように本件モンタージュ写真の作成が、本件写真の節録引用に該当するとして「正当ノ範囲」の解釈適用問題へと論をすすめることとする。

原判決は、結論として本件モンタージュ写真の作成における本件写真の引用は「正当ノ範囲」内であるとしている。その演えき過程は次の通りである。

1 「正当ノ範囲」とは、――規定が著作権の社会性に基づき、これに公共的限界を設け他人による自由利用(フエア・ユース)を許諾する法意であることに鑑み――自己の著作物に著作の目的上引用を必要とし、かつ、それが客観的にも正当視される程度の意味、である。

2 (作成目的上の必要性についていえば)本件写真を批判し、かつ、世相を風刺することを意図する本件モンタージュ写真を自己の著作物として作成する目的上、本件写真の一部の引用を必要としたものであることは明らか。

パロディは、批評の一形式として社会的には正当な表現方法というべきであるから、本件モンタージュ写真が本件写真のパロディであるからといつて、その引用の目的における正当性を否定すべきいわれはない。

3 (客観的にも正当視される程度か否かについていえば)引用の方法も、今日では美術上の表現形式として社会的にも受け容れられているフォト・モンタージュの技法に従い、客観的にも正当視される程度においてなされているということができる。二次的著作物の場合と異なり、他人が自己の著作物において自己の思想感情を自由に表現せんとして原著作物を利用する場合は、憲法第二一条一項の要請からみて、その引用の程度、態様は自己の著作の目的からみて必要かつ妥当であれば足り、原著作物の一部が改変されても原著作者において受忍すべく、同一性保持権を侵害するとして正当の範囲を逸脱するという考え方は成立しない。

4 よつて、本件モンタージュ写真における本件写真の引用は、「正当ノ範囲」内における引用である。

原判決の右の推論過程は、「正当ノ範囲」について、目的及び方法の両面から検討し結論を導き出したかの体裁をとつているが、中身たるや、風刺を目的としたフォト・モンタージュの技法が社会的に受け容れられた美術上の表現方法であることを至上として、結局「他人が自己の著作物を引用する程度、態様は、自己の著作の目的からみて必要かつ妥当であれば足り」るとする。「妥当」あるいは「客観的にも正当視される程度」といつてもその意義自体明確性を欠く上に、本件モンタージュ写真における本件写真の引用の程度、態様がどういう理由で「妥当」であるのか、どうして「客観的にも正当視される程度」なのかという最も重要な点について、何らの説明もされていない。

原判決の立場にたてば、風刺を目的としたフォト・モンタージュ作成のために必要なら、如何なる引用の方法も、理屈はどうあれ、結局許容されることになろう。著作権思想の歴史、著作権法制定の理念を無視した、原判決の解釈は、到底識者が賛同しうるところではないが、以下「正当ノ範囲」の正しい解釈を論究し、原判決の解釈の誤りを明確にする。

二、「正当の範囲」の役割――現行法第三二条一項との関係も含めて――

旧法、現行法を問わず、著作権法をめぐる最大の問題は、著作権の限界をどこにおくべきかという点である。著作者の利益保護と社会利用の円滑化という、どちらも社会の文化発展に寄与する二つの要請を、どこでどのように調整するかという問題である。著作物の自由利用の範囲を広げすぎると著作者の権利は不当に害され、逆に創作活動を沈滞させて文化の普及、発展を阻害することになりかねない。旧法の「正当ノ範囲」も、現行法の「公正な慣行に合致し、かつ報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内」もこの二つの要請の調和という使命を担つた規定である。現行法が、正当な範囲内における引用であるかどうかの判断の基準を、旧法より具体化したのは、旧法において「正当ノ範囲」内というだけでは、具体的にどの範囲までの引用が、許されるのか必ずしも明確ではない、との批判に答えたものという(国会図書館調査立法考査局 著作著法改正の諸問題 但し依然不明確との批判がある)。著作権の制限についての基本的考え方は、新法旧法で変りがないとされているのであるから(佐野文一郎 ジュリスト四七三号一一二頁)、旧法の「正当ノ範囲」の解釈についても当然現行法を参考にすべきものである。「正当ノ範囲」内の引用といいうるための条件は次項で検討するが、「正当の範囲」が、前述した二つの要請の接点にある以上、原判決のように、社会的に受け容れられた表現方法の故を以て一方的に著作者の利益を奪うことは許されない。

三、「正当ノ範囲」内のための条件

現行法制定前の、「正当、ノ範囲」に関する学者研究者の著述によれば、一様にその不明確さ、説明の困難さを指摘しているが、「引用される著作物と引用する著作物との比較からみて、社会通念上許される範囲」(阿部浩二 ジュリスト二八二号八頁)程度の意味に解されていたとして間違いない。そして具体的に外枠をなす条件として、共通に挙げていることは、第一には、「引用部分は、常に利用著作物にとつて従たる地位をもつものでなければならず、主従の転倒があつてはならない」(前掲同頁)「あくまで自己の著作物中において従たる構成資料として社会通念において認められうる範囲でなければならない。……その引用によつて主客が顛倒し他人の美術的著作物が当該著作物において主たる地位を占めるものとして認められるに至つた場合は、正当の範囲内における節録引用とはいえない」(萼優美 条解著作権二五五頁)ということである。第二は、「不必要な部分までの引用は許され」ないこと、第三は、「原著作物のままでの引用でなければならない」(阿部 前掲同頁)ということである。現行法は、「公正な慣行」「報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲」を条件にしているが実質的には旧法における「正当ノ範囲」の具体化である。全面改正にあたり著作権の制限規定を設けるについて、「著作物の利用の自由はとかく濫用されやすいので……著作者の利用が不当に侵害される結果にならないように、その条件を厳密に定めることが必要とされる」(国会図書館調査立法考査局前掲書一〇三頁)「新法では著作者の権利の保護ということを考えながら、自由利用の限界というものをあらためて厳密に示す。それを土台にして、著作物の利用慣行がさらに育つてくることを期待する」(佐野 前掲書一一四頁)と、いうのが立法者側の意向であつたことは、解釈にあたり充分留意されるべきことである。「公正な慣行」とは、「世の中で著作物の引用行為として実態的に行われており、かつ社会感覚として妥当なケースと認められるもの」(加戸守行 著作権法逐条講義一五四頁)であり、例としては、ピカソを論じた著作のなかにピカソの絵を自説を説明するためさし絵的に引用するのはよいが、表紙や口絵に使うのは、鑑賞用であつて公正な引用ではないとされる(鈴木敏夫 実学・著作権上一八八頁)又、引用文が、自己の文章と明確に区別されない形式での利用方法は、公正な慣行に合致しないとされる(加戸 前掲書一五四頁、鈴木 前掲書一八九頁)。次に、「引用の目的上正当な範囲内」とは、先ず報道・批評・研究に限られないが、「他人の著作物を自己の著作物中に持つてくるだけの必然性が認められる創作目的」(加戸 前掲書同頁)が必要とされる。そして「正当な範囲内」を決めるメルクマールとしては、量的にも質的にも、あくまで自己の著作物が主で、引用された他人の著作物は従でなければならないこと(加戸 前掲書同頁)、及び引用形式としては、原著作物のままの引用が原則とされる(鈴木 前掲書一八九頁)外国の例で参考になるのは、米国の著作権法(案)におけるフェア・ユースの規定である。

フェア・ユースは判例法の中で認められてきたが、何が、フェア・ユースかを定義づけることはむずかしく、従つて四つの基準を示している。第一は、使用の目的および態様、第二は「著作権の目的となつている著作物の性質、第三は、当該著作物の全体に対する利用部分の分量および実質、第四は、当該著作物の市場及び価値に対する影響、である(国会図書館調査立法考査局 前掲書一〇九頁、野村義男ジュリスト四七三号一一四頁)。

以上の考察から、おのずから(正当ノ範囲)内のミニマムとしての条件は相当程度具体的に把握出来たと思われる。自由利用の濫用による著作者の利益侵害を防ぎながら、社会における文化の普及発展を期すという立法趣旨からは、次の条件が必要とされる。

第一に、他人の著作物を引用する目的とは、必然的に他人の著作物の引用を必要とする報道、批評、研究と同様に、その性格上必然的に引用を必要とする目的がなければならない。

第二に、引用部分は、厳格にその引用目的上必要とされる部分に限られねばならない。

第三に、引用部分は、自己の著作物と明確に区別出来る形式で引用されねばならない。

第四に、引用部分は、量質共にあくまで従でなければならず、自己の著作物が主でなければならない。

第五に、引用部分は、原著作物のまま引用されたものでなければならない。

第六に、原著作物の市場価値を失わせる程度、態様の引用であつてはならない。

第五の条件は、著作者の有する同一性保持権の問題と関連するので別項をたてて詳述することにする。

四、「正当ノ範囲」と同一性保持権

原判決は、著作者の有する同一性保持権の侵害が、「正当ノ範囲」の逸脱にあたるのではないかとの議論を否定し、その理由として、同一性保持権の及ぶのは二次著作物の場合で、自己の著作物に原著作物を引用する場合は、――自己の著作の目的からみて必要かつ妥当な程度、態様の引用であるかぎり――表現の自由(憲法二一条第一項)が保障され、原著作物の同一性保持権は、これを制限する合理的理由にならないというのである。原判決の、憲法第二一条第一項と著作権法、著作権法と著作権の制限規定、憲法第二一条第一項と著作権の制限規定の、各関係についての大いなる誤解は、既に指摘し批判したところである。

ここでは、その誤解の一場面としての同一性保持権について考察する。第一に指摘しておかねばならないのは、原著作物の同一性保持権の保障を二次的著作物に限つた点である。原判決にみる以外にこのような見解を、我々は寡聞にして知らない。同一性保持権は、公表権、氏名表示権と共に著作者人格権の内容をなす権利である。著作者人格権は、ベルヌ条約の一九二八年改正ローマ会議で明文化され、一九四八年のブラッセル会議で拡大強化された。著作者人格権の思想は、一九世紀ドイツ私法で形成され――一元的構成か、二元的構成かの論争を経ながら――次第に各国で判例上、立法上認められてきた結晶がベルヌ条約のローマ規定第六条のこということができよう(半田正夫 著作権法の研究八頁以下)。勿論著作者人格権の内容をなす三種の権能とも各国共通である。我が国においても旧法の前身である明治二〇年の版権条例第二八条において既にこの三種が登場し、その後旧法第一七条第一八条の規定するところとなつたのである。旧法においても、右の三権能を内容とする著作者人格権の存在は、生みの親である水野錬太博士の明言するところであり、論者の疑いを差しはさまぬところであつた(鈴木 前掲書上一五七頁、萼 前掲書七〇頁)。現行法は、著作者人格権の存在を規定の上で明確にしたものである(著作権法第一八条乃至第二〇条)。その上誤解をさけるため、注意的規定として第五〇条を置き、著作権制限規定によつて著作者人格権が影響を受けることはない旨規定した。著作者人格権の存在同様に、これまた当然のことであつて、旧法下においても現行法第五〇条の趣旨は全くかわらない。原著作物の引用は、法廷の除外事項にあたらないかぎり(現行法第二〇条二項参照)原著作物の同一性保持権に影響を及ぼすことは許されない。従つてその意味で、同一性保持権は「正当の範囲」内のための重要な条件の一とされて当然である。

五、原判決の誤り

いよいよ本件写真の引用が、「正当の範囲」内か否かについて具体的に論ずる段階にいたつた。原判決の、「正当の範囲」に関する解釈の誤りの根本原因は、著作権制限規定の解釈適用に際し、考量さるべき二つの保護法益のうちの一方のみに視点をすえて判断を下している点に存することは既に述べたところなので繰り返さない。

本件モンタージュ写真と本件写真とを、三、に述べた基準をよりどころにして検討してみる。先ず、本件モンタージュ写真の制作意図について被上告人は、本件写真の疑似ユートピア思想を批判し併せて自動車公害におびえる世相を風刺する目的としているので、――被上告人が制作当初からこのような意図を有していたかについては大いに疑義のあるところであるが――一応この二つの目的を前提にしてみよう。前者の、本件写真の批判という目的は、――批判方法として――本件写真の引用を必然的に必要とするという条件は一応充足すると考えてよい。しかし後者の自動車公害におびえる世相を風刺するという目的については問題がある。被上告人が自動車公害の世相風刺のために本件写真の引用を必要とする必然性は全くないといつてよい。本件モンタージュ写真において被上告人のいう風刺を形づくつているのは美しい雪山と、巨大なタイヤと、わだちのようなシュプールと、逃げるが如き小さな人間の姿である。被上告人自身が写した同様の情景の雪山写真に、巨大なタイヤを合成させて同一の写真を作成するとすれば、充分に製作目的を達することができるのである。自動車公害の世相風刺という目的からは、本件写真の引用は何の必然性ももたないといつてよい。

次に引用の方法について検討したい。許される引用部分の範囲と同一性についていえば、絵や写真については、原則として全体を引用すべきで、部分を引用した場合は部分であることを明示すべく、勝手にトリミングすれば、仕方によつては同一性保持権侵害になるとされ(鈴木前掲書上一八八頁)、美術の著作物の原作品の破壊が同一性保持権の侵害になることはいうまでもないとされることは(国会図書館調査立法考査局 前掲書一四五頁)、文章などと異なる美術作品の性質上至極当然の見解である。本件写真の勝手なトリミングを許さなければならないようなやむを得ない事情は(現行法第二〇条二項三号参照)、何ら被上告人には存しない。勝手なトリミングと、タイヤ写真の合成による本件写真の改変は、美術作品にとつては最早破壊と呼ぶべき事態であつて到底法の容認するところではない。さらに引用部分が識別される形式で引用されていないこと、又引用部分の本件写真が量的にも質的にも断然主であることは、本件モンタージュ写真を瞥見すれば一目瞭然である。

最後に市場値の点であるが、美しい雪山写真としての本来の価値は、本件モンタージュ写真への引用によつて著しく低下せしめられたということができよう。

以上のとおり、本件モンタージュ写真の作成における本件写真の引用は、「正当ノ範囲」内の引用に該らないことが明らかとなつた。

それでは、フォト・モンタージュの技法は全く認められないのか、との疑問が投げかけられよう。簡単に答えておきたい。繰り返しになるが、我々は、フォト・モンタージュの技法が――美術的評価は別として、――美術上の表現方法として存在することを否定するものではない。しかし社会の文化発展という目的に鑑みれば、第一義的保護されるべきものは、創作性であつて、複製技術の発達が生み出した他人の創作物を土台にするフォト・モンタージュの技法が、著作権制度にとつて、相容れざる部分を多く有することは、むしろ当然の宿命といわざるを得ないのではなかろうか。

第四点 旧著作権法第三〇条二項の解釈適用の誤り<省略>

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